@デリス
【日テレ】終戦記念SPドラマ この世界の片隅に
日テレの終戦記念SPドラマ
「この世界の片隅に」を視聴しました。
原作読了済みです。
あのボリュームを二時間半に纏められるのか、原作の絶妙なユーモア・かなり読み手に委ねられているキャラクターの感情表現などなどをどう演出するのか、実写で大丈夫なのか、演技は上手くできるのだろうか(多くは方言的な意味で)
更に、新聞のテレビ欄を見た時の嫌な予感。
はっきり言って不安でしたが、原作は好きだし、まあ見てみるかと視聴しました。
結果として。
ドラマは駄作でした。開始5分で駄作だとわかる出来。
片手に携帯、片手に原作がなければ耐えられなかったでしょう。実際しっかり見れませんでした。酷過ぎて。
一応最後まで我慢したのですが、ラストの周作に再会するシーンでギブアップしました。
私の時間を返せよ。
ってことでどういうところが駄作だと感じたか、纏めつつ書き連ねていきます。
・ドラマ原作選びの失敗
元々原作は戦時中の人々の日常を淡々と描いたもので、よくある戦争ものとは一線を画します。
戦時下であれ人には人の生活があり、その中で泣いたり笑ったりもする。『この世界の片隅に』はそこに焦点を当てた話ではないかと思うのです。だからこの作品は、戦争ものに良くある、哀しい辛い苦しいという気持ちで溢れた作品ではなく、ユーモアに溢れたもので、噴き出すこともしばしばです。
この作品はあの絶妙なユーモアがなければ単なる「戦争もの」で終わってしまうでしょう。
それを決行したのが今回のこのドラマです。
ドラマのできを見るにつけ、この企画を立てた人は、こうのさんや原作がもつ人気や、「文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞」という看板、戦闘シーンが限りなく少なく低コストで作ることができるという金勘定だけでこの話を選んだのではないかとすら思えます。本当に原作読んでるの?と言いたくなります。
原作が反戦物に向いていないのだから、そもそも原作選びからして失敗していると言えるでしょう。
・キャスト関連
まず、主役はミスキャストじゃないだろうか。北川景子はどっちかというとリン役があっていると思います。逆に優香がすず役をやればよかったんじゃないかな。
演技は言わずもがな。やっぱりすずと水原が酷い。特にすずはおっとりさとかぽやんとした感じを出すのに顔芸しかないのかと言いたくなる出来。
それから、広島・呉を舞台にした話なのだから、方言はもう少ししっかりしてほしかったところでした。りょうは頑張っていたと思います。
・脚本&演出
まず、脚本は何がしたかったのか。「激動の時代を生き抜いたある女性の小さな幸福を描く愛の物語」とテレビ欄にはありましたが、その結果できあがったのが「昼ドラ」なんだから恐れ入ります。
かなりの分量のある原作ですから、時系列をいじったりエピソードを改変・省略したりするのは理解できます。二時間半のドラマという枠に落としこむには、この作業は必要不可欠です。
ですが、その落としこみ方があまりに粗雑すぎる。
原作のあらすじをなぞるだけ、な出来栄え。……だけなら、「あの量の原作を二時間ドラマにするのは大変だものね」といっても良いですが、この脚本家がやったことは「いかにしてこの話をラブストーリーにするか」でしたね。
力を入れる箇所間違えてるだろ。
それからBGMはもっと作品の時代にあったものにして下さい。
セットといい小物といい、もっと気を配って作品を作ってくれませんか。
・人攫い
あの化け物の人攫いを出さないのなら、そして鬼いちゃんにスポットを当てないなら、このシーンはいらない。
ふたりが過去にあったことがあったと強調したいだけなら、人攫いではなく迷子などに改変すべきだった。
結果的に変な浮き方をするエピソードになってしまったと思います。
※追記
私の見ていない最後あたりで、実は人攫いというのはすずの勘違い~という訂正が入ったそうです。
それなら話は通じますね。
しかしそんな小細工するくらいなら普通に迷子になって馬車に乗ってたシーンにすればよかったんじゃないのかと。
・冒頭のすずとサン(周作母)のやりとり
これは最初に見た時にはっきりと違和感と不快感がありました。
この冒頭のやりとりがあったから、脚本を確かめたくて最後まで見ました。
結果的に、脚本としても道徳的(?)にも最悪だということがよっく分かりました。
以下、そのやりとりです。(分かり難いので色をかえます)
怪我を負ったすずが目覚める。すずは眠っている間夢を見ていた。
そこへサンがやってくる。
すずはサンへ、自分が見た夢の内容(実は小さい頃に周作に会っていた)を話す。
それを聞いて
サン「すずさん、あんた爆弾にやられて頭おかしくなったんか」
すず「……放射能か」
ふたりで噴き出し、すずさんは前から頭おかしかったわねとサンが言う。
……このような流れです。
すずが爆弾にあったのは確かですが、それは道端に落ちていた時限爆弾です。このやりとりだと、すずが原爆にあったように受け取れます。
しかし実際にはすずは原爆に遭っていませんし、時限爆弾にやられて寝込んでいたのは原爆が落ちるもっと前です。故に、その頃の会話で放射能がどうのこうの、という話が出る筈がないのです。
ちなみに原爆が落とされた時には既に床上げ済みで、普通に生活していました。
それを知っているから、もしかしてすずが原爆に合う設定に変わったのだろうか?と思って、それを確認する為にドラマを見ていましたが、ドラマでも原作と同様、すずは時限爆弾に合って右手を失くし、それから暫くして原爆投下が起こるという流れでした。
つまり。
この脚本は、自分の書いた話のつじつまも合わせられないということです。
加えて。
「被爆した人は頭がおかしくなる」という非常に差別意識に満ち満ちたものになっています。
原爆にあった人たちはその後容赦ない差別に晒されることになりますが、特にこのドラマがそのような側面を取り扱う訳でもありません。もしもそういった「原爆被害」も取り扱う話なのならば、このような遣り取りが出てきてもおかしくありませんが、今回のドラマでは単なる脚本家の差別意識が露呈したという風にしか受け取れません。
原発問題によって新たな被曝者・被曝地域が生れてしまった昨今、この発言は過去原爆にあった人だけでなく、現在放射能汚染で苦しんでいる人たちにも配慮のない酷い暴言でしょう。
・水原が訪ねてきた夜のこと
多分尺がなくてあの場ですべて済ませてしまったのでしょうが、すずと周作が口げんかする場面は頂けません。
長くなるので省きますが、あれだと原作の二人のような関係は築けないでしょう。あの場ですずの感情が爆発するシーンを持ってくるのなら、その後フォローを入れるべきだったと思います(周作が水原との関係にやきもちを焼いていたなど)
それから、水原が「お前はいつまでも普通でいてくれ」というシーンは演出的な意味で感情こめ過ぎです。あのシーンは原作では淡々としているのですが、それが却って二人の覚悟のようなものを感じさせました。
ああいった感動を引くようなやり方は一定の効果はありますが、だったらもっと臭くならない演技と演出をしてほしいです。
付け加え。
ドラマ版の水原はかわいそうだなと思いました。だって死んでしまうんだもの。しかもあんな臭い演出で。
水原が生きた状態で原作通りにやってくれれば、ドラマでは表現しにくいすずの「歪み」も少しは表わせたのに、と思います。そもそも、この脚本は省くところがことごとく戦争の悲惨さが伝わりそうな場面なんですよね(鬼いちゃんの遺骨が帰ってくるところとか)
・晴美の死亡関連
晴美が死ぬ前の状況が原作とちょっと違うなとは思いましたが、原作のようにするとすず(だけ)が時限爆弾を発見する表現の仕方が難しい為なのかなと思いました。
しかし私が一番不満だったのは、すずが目覚めて開口一番、「右手、どこ」(言い廻しの詳細はあやふやですが)と言ったことです。
多分こう言わせることにより、すずが右手を失ったことを視聴者に分かり易くしようと思ったのでしょうが、これではすずが自分のことを第一に考える人間のように見えてしまいます。原作を読んだ人間なら尚更です。
そして晴美を失ったことに対する深い自責の念というものが、単純な「死んでしまいたい」(言い廻しの詳細は以下略)に集約されてしまう有様。せめて原作のすずのモノローグでも入れればよかったものを。
ところでこのすずの「死んでしまいたい」発言は違和感ありました。原作では違うニュアンスのことを遠まわしにモノローグしていましたが、絶対にすずはこんなことを言いませんでした。「自分が代わりに死ねばよかった」は言えても、「死んでしまいたい」と思うような人では、すずはないはずです。そうでなければ「様々な人やモノの記憶の器としてこの世界にあり続けるしかない」と笑いながら言ったりしないでしょう。
この周辺に関しては、すずの人格に違和感を覚える脚本となっています。
・終戦直後のすずの反応
ドラマでお父さんが喋っていたのはすべてすずの台詞です。何故改変してお父さんに言わせたのか分かりませんが(いや、分かっているんですけど。すずと周作の恋愛ドラマに主軸を置く為に、すずにあの台詞を言わせてしまったからでしょう)、あんなところで台詞を分配する必要はなかったと思います。
というか、すずに全部喋らせろと。
それまでの作品を通して、一貫してすずはおっとりのんびりで、右手を失った後は空襲に怯える内情をモノローグで表現をもしていたのに、あの場面で突如として爆発する、あれがいいんじゃないですか。
一見現代人っぽい、普通っぽいすずが、というか、すずですら、自国の正義を信じ、お国の為に頑張る国民だった、というのが露呈するのがあの場面な訳です。そこが現代の読者にとっては強烈なインパクトなわけで。
それなのに、お父さんにあのセリフを全部言わせて、すずには「周作さんを返して!」と言わせてしまうことで(周作とすずという関係に集約してしまうことで)、原作のあのインパクトを台無しにしてしまっています。
あと、演出。すずの右手で地面どんどんさせるの見ていてすごく違和感でした。
径子の態とらしい「せいせいするわ」というところは本当に要らない……あれは人前だと結構あっさりと「終わった終わった」と言っている径子が、人目につかないところで晴美の名を呼びながら泣いているから良いのであって……
・原爆後の広島
原作だとあの回は「人待ちの街」というタイトルをつけられています。
その通り、すずや周作は色んな人から「あんた○○さんじゃないかね」と話しかけられます。
なんというか、それが切ないんですよね。
個人的にセットの出来不出来はそんなに気にしませんし、道端に死体がない~という批判もしません。自分にグロ耐性がないのと、グロさえ見せれば悲惨さ伝わるだろ、という考えも持っていないからです。
グロ等なくても、悲惨さは伝わる。
その伝え方のひとつが、「誰もが人待ち顔」な広島の風景だと思います。
しかしそのような、悲惨さを伝える工夫をひとつもこらしていないのがこのドラマです。
案の定、周作との再会を最後のもりあがりに(改変して)持ってきました。
徹頭徹尾、このドラマは昼ドラだったのだな、と思わされる出来です。
周作が出てきてから見ていないのでその後の詳しいことは分かりませんが、本当にこのドラマを「終戦記念SP」としたかったのなら、すずの妹のすみの話をまずはすべきだったのではないでしょうか。
* ******** *
悪いところばかり書き連ねてしまいましたが、それでも良いところはありました。
いいと思ったのは、すずのほくろについてです。
人攫いの場面で周作に「のりなのか、ほくろなのか……ほくろだった」とすずのほくろを印象付け、再開後にその話をするというところですね。この人攫いでの前振りのお陰で、「すずのほくろ」が周作にとってキーワードになりました。
……ただしその分、ふたりの恋愛ドラマに利用されてしまった感はありましたけど……
『この世界の片隅に』自体は本当に素敵な作品です。プロットもさることながら、マンガとしての表現をかなり意識し、突き詰めて描いているなと読んで思います。
是非一度は読んでみてもらいたいマンガです。
アニメ化も進んでいるそうで、そちらに期待。
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